小津330年のあゆみ

目次

第一章

第二章
・松阪の小津清左衛門
・紀州藩と小津清左衛門
・小津清左衛門、歴代
・商人と御用金
・掟書のこと
・小津清左衛門の信仰と施行
・小津清左衛門の日常

第三章

第四章

第五章

第六章

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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松阪の小津清左衛門
 小津清左衛門が生まれ育った松阪の町は蒲生氏郷の城下町として営まれ、 江戸時代に紀州藩徳川家の領地となってからは、奉行所がおかれて栄えてきた。 氏郷以来の政策は松阪を商業の中心地として栄えさせることにあって、 有力な商人を松阪に集めるとともに、良港に恵まれた地の利を生かして、 貿易が奨励され、鎖国時代になると船便による国内交易に力が注がれてきた。 それに松阪はの周辺は産物が多く、商業が奨励されていたので、 世の中が安定するにつれて、商売を志す人たちがぞくぞくと各地へ進出していった。 松阪商人と呼ばれる人たちである。とくに江戸への進出が盛んで、 江戸の町まちには伊勢屋の看板が目立ち、また、商売の手堅さと独特な店経営とが注目されて、 松阪やその周辺の出身者が営む問屋は「伊勢店(いせだな)」と呼ばれた。

 清左衛門長弘は創業当時はもちろん江戸にあって商売に励んでいたが、 商売が繁盛して店の経営が大丈夫と見定めるころになると、住居を郷里松阪にもって、 江戸店の経営を支配人に委ね、松阪から店の経営をみるという形態をとっている。 これには松阪商に共通した江戸店経営法であった。松阪は京、大阪に近く、 商いの便がよく、情報も早かった。 それに江戸店は身元のはっきりした松阪出身者やその近辺の者で固めているので、 器量のある奉公人に店を委ねての経営が可能であったともいえるのである。

 松阪には小津姓が多い。そのいわれについては、本居宣長が『家のむかし物語』 のなかで先祖や縁者のことを述べつつ、小津姓のゆかりを記している。 松阪の近郊の小津村から油屋源右衛門という人が松阪に移り住んで、小津を名乗ってから、 小津を家名とする人が多く出たといわれている。 小津姓の人には商売を志す人が多く、江戸大伝馬町にも小津を名乗る店が多く、 江戸店を経営して分限者となった人も少なくない。小津清左衛門長弘が店をもったとき、 大金を融通してくれた小津三郎右衛門(三四右衛門ともいう、本居宣長の曾祖父に当る)もその一人で、 本居宣長が「江戸に店を創置(はじめおき)て一家を起し」「かの地大伝馬町一丁目に、 木綿店三店を創置玉(はじめおきたま)ふ」と記しているその人である。 本居宣長の家系は宣長の五代前までは本居姓であって、四代前から小津姓となった。 そうしたわけで宣長も家業の商売に従事していた青年時代は小津姓だったが、 商売から転向して医者になるため京都へ修学にいったときに、先祖の旧姓「本居」と改めたのである。

 小津姓の人たちは数も多く、栄える家も多かったので、松阪では小津党、 小津五十党とも呼ばれ重きをなしていた。清左衛門の家も栄え、また地元へもよく尽くしたので、 周囲からも重んぜられて、長弘の次の代の長生のとき、清左衛門は小津党の長老に推されている。

 小津清左衛門の名は個人小津清左衛門の場合と、店の名として小津清左衛門が用いられている場合がある。 いずれとも区別がつきかねるときもあり、松坂の本家にも江戸店にも手代がいて 清左衛門の名で代行していたから、あたかも小津清左衛門が松阪にいて、江戸にもいるという形となったりする。 そのうえ代々襲名であるから、時代を超えて使われている。 また、ときには伊勢屋清左衛門を名乗り、世間からもそう呼ばれたりもした。 清左衛門が栄え、小津党第一の富商となり、松阪だけでなく、江戸の富商と唱えられるようになってからは、 松阪商人の小津、大伝馬町の小津といえば清左衛門のことを指すのであった。

 清左衛門の屋敷は長弘の父が松阪に移り住んでから、長弘の代までは松阪の西町にあったが、 貞享三年(一六八六)に伊勢街道に面した本町に移っている。長弘が弟の長生に家督を譲った年である。 本町の屋敷は大橋の傍らにあって、それ以来、清左衛門は代々ここに住んだ。

現在、その場所には「小津旧宅」の名で知られる屋敷が残されている。 広かった構えのなかの母屋のみであるが、元禄・文化のころの建築と推定されている。

 小津清左衛門長弘は六十二歳のときに、弟の長生に(孫大夫)に家督を譲って隠居し、 玄久と号して悠々の生活に入っているが、その篤実な人柄が町の人びとの敬慕を受けて、 清左衛門家の基礎を築いた。玄久によって培われた信頼は代々の清左衛門家に受け継がれ、 幸いなことに後を継いだ人たちも先祖の名を全うすべく努めたので、 玄久の余恵は後のちまでも清左衛門の栄となった。

紀州藩と小津清左衛門
 小津清左衛門は代々、紀州藩徳川家の恩に深い感謝をあらわしている。 こうして家業がいそしむことができるのも、藩主の治政によるものとの感謝から、 紀州藩や松阪奉行所には格別の奉仕をしていた。 ときには度たびにの御用金の沙汰に難渋したこともあったが、それにもかかわらず、 小津清左衛門の紀州藩への忠誠は代々変わることなく厚いものがあった。

 長弘から四代目に当る長郷の代になってからのことであるが、 代々の奉仕の褒賞として大年寄格を命ぜられ、十五人扶持を授けられている。 玄久(長弘)と長生とが世を去った年から四十四年を経た宝暦四年(一七五四)のことであった。 大きな名誉であり、町の人びとからも格別に祝福されたのである。

 紀州藩からはその後、維新に至るまで数々の栄誉が与えられた。 その主なものを抜き出してみよう。

・松阪御為替組に加えられ、元取を命ぜられる--宝暦五年(一七五五)
 紀州藩の松阪御為替組がおかれると、他の七家とともに御為替組に加えられ、 小津は殿村家とともに御為替組元取を命ぜられている。 富商のなかでも抜きんでた富商と認められるまでに、小津清左衛門は充実した商人となっていたのである。 このとき、当主の長郷は江戸三店の沽券(不動産の証書・沽券高九千四百五十両のもの) を御為替組御用の敷金として差し出している。巨額の金銭を扱い重い責任をもつ御為替組だが、 それにしても差し出した沽券の金額は大きいものであった。

 御為替組御用は紀州藩の年貢米金のほかにゃ上納、金繰りの御用を勤めるもので、 年貢が金の場合は紀州藩から預かった金を藩の江戸屋敷へ送る業務を行った。 御為替組仲間が交替で月番になり、各店分担の業務をとりまとめ、元取の指図の下に御用を勤める。 元取はこのほか正米切手など藩の金繰りにも関与する重い仕事であった。 負担も重かったが、藩からは無利子の貸付金など便宜が与えられ、 また、藩の信頼を意味する名誉ある任命でもあった。

・地士帯刀御免、四十人扶持を授けられる--寛政二年(一七九〇)

・年頭御目見の際の熨斗目着用を許され、仲間の上座を許される--寛政三年(一七九一)
 仲間筆頭の格別の優遇が清左衛門に次つぎに与えられた。長保の代である。

・正米問屋元締を命ぜられる--寛政三年(一七九一)
 藩の財政にかかわりの深い役目で、毎日正米問屋に出張して、藩の役人に代わって正米問屋を指図したという。 手代が主人に代わってその役目を行っていた。寛政八年には正米問屋を兼ねるように命ぜられている。 こうした繁瑣な仕事を小津清左衛門は維新の改変のときまで続けているが、 清左衛門の代々に受け継がれていく篤実な店風が、紀州藩の信頼を得たからであろう。 小津もよくそれに応えた。

・五十人扶持を授けられる--文化四年(一八〇七)

・紀州藩、松阪銀札発行に際し、御為替組として発行元となる--文政五年(一八二二)
 紀州藩は幕府の特別許可を受けて松阪銀札を発行することになり、その発行元には三井組と御為替組が指名され、 銀札会所がおかれて、それぞれに極印を捺して銀札を発行した。 御為替組の銀札には長谷川、小津、殿村、長井、坂田の五家の名が捺されている。

・熨斗目着用を許され、地士独礼格を命ぜらる。--文政六年(一八二三)
 長澄が家督を相続したとき、女戸主として小津家を背負ってきた磁源法尼(長保の妻の由賀。 後に喜賀とも名乗る。篤信の人)が、清左衛門の家を取り仕切り、店を繁盛させるとともに、 藩の御用もよく勤めたので、その功に報いてとくに授けられたものであった。

・八十五人扶持を授けられる--文政十三年(一八三〇)
 仲間内で例のない最高の扶持が授けられたのは、長澄の嗣いだ長堯のときであり、 破格のことで周囲の目を見張らせる栄誉であった。

・魚町組大年寄を命ぜられる--安政五年(一八五八)
 長柱の代。江戸時代も後期のことで、そのときの記録『御用留』が残されていて、 大年寄の仕事の有様が詳しくわかる(大年寄留控=元小津家蔵、現松阪市史編纂室蔵・松阪市史巻十三に小津家文書として収録されている)。 それより抜粋すると、任命された日には、
 二月廿五日晴
     大年寄任命
          小津清左衛門
 魚町組大年寄兼勤申付之
     二月廿五日
          長井嘉左衛門
 町廻り組大年寄兼勤申付之
     二月廿五日
とある。大年寄というのは奉行-大年寄-町年寄という組織で市中の自治に当る役目であった。 小津文書は大年寄の御用留である関係で、奉行所からの触れや達しがその大半を占め、 その他に町の出来事、祭礼や興行、縁組や離婚、火事、水害などの記事もあり、大名やその家族、 役人が松阪を通過するときの町の応対なども記されている。
 小津清左衛門に与えられてた大年寄八十五人扶持の待遇はその後も変わることなく、維新まで続けられた。


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