商昌には掟書があった。小津の掟書の最古のものは創業者の清左衛門長弘が隠居後に定めた『定』七ヶ条で、
「戊六月」と記されている。長弘が隠居して玄久と名乗ってから八年目の元禄七年(一六九四)六月である。
弟の長生が当主として清左衛門家の采配をふるっている時期であり、江戸店も繁盛して店舗を拡張しているときであった。
世間は元禄文化を謳歌していた時代であったから、江戸で奉公勤めの苦労をし、
創業店主としてさまざまな経験を重ねてきた玄久としては、ここで掟書を定め、店の風儀を引きしめておきたかったのであろう。
世間や商売の機微を知り奉公人の気持ちをよく知る玄久の『定』は、大を見据え、
些事の重きを知っての七ヶ条といってよく、一言一句に経験の深さが凝集されている趣がある。
全文をそのまま次に記す。なお、当時の表記の習慣で文には濁点が用いられていない。
また、耳慣れない「なめんたら」の語が用いられているが、「なめんだら」のことで、乱雑の意味である。
定
一御公儀様御法度者不申及諸事相背申間敷事
一人請口入堅致申間敷事並ニ預り物なと仕候ハ能々念之入可申事
一相店へも用之なきに参間敷事
殊ニ夜あそひニかたくきんセい之事
若不叶用其先様行所急度斷可参事
一買出シニ参候は調次第ニ早々店へ可罷歸候事
一棚ニ而人之見ル様ニやうし遺仕間敷事
殊ニはきもの諸事なめんたら致間敷事
一店火之用心ニかい下店火之用心能々可致事殊ニ類火之用心四季共ニ油斷有間敷事
一身之養生互ニ氣ヲ付随分可仕事
右之趣急度相守可申者也
小津玄久
戊六月目
玄久の掟書は二代後の長康によって、正徳三年(一七一三)に補足されて『定』十二条がつくられた。
玄久・長生が世を去って長康の代となった宝永七年(一七一〇)から三年目のことであり、
新進気鋭の長康が玄久の『定』を踏まえつつ、みずからの意志を加えて店員に示したものである。
長康の掟書も第一条は玄久と同じく「御公儀様御法度之儀堅相守可被申候事」ときびしく戒めている。
店の者への戒めであると同時に、公儀に対しての深い配慮であった。
たとえ奉公人の行ったことでも店主が責任を負う仕組みの社会であリ、ときには町の世話人にも類を及びしかねない時代である。
きわめて切実な戒めであった。
長康の掟書の第二条は火の用心である。江戸は火事が多発していたし、失火はもっとも重い罪の一つであった。
「台所並店々火用心無油断可被念入候事」と戒める。第三条は店員の心を諭したもので、
玄久の『定』と趣を変えて物買衆(お客のこと)に「慮外無之様」とし、
つねづね子供衆にも申し渡しておくようにとお客様大事を強調している。
長康は「大酒致間敷」と過度の飲酒を戒め、口論の戒めにも念を入れて「老分之者は元より子供に至る迄」
と店員全員への戒めであることを強調して、「任我意候而過言一言之口論も無之様ニ慎ミ」
と自我自粛を求めているのは、男世帯の店の生活への配慮であり、
店の和を願う店主の気持ちから出たものであろう。
また、当時の風潮を憂えての項目と思われるのは、「狂言芝居見物之儀向後堅無用に候」で、
江戸店の者が浮薄な都会風に染まることを案じる気持ちが強く出ている。
若い長康には、高齢だった玄久や長生の耳に入らない江戸の風潮を知る機会が多かったのであろう。
長康自身も店の者と生活をとみにした時期があったとおもわれ、微細にわたって戒めている。
そして最後のしめくくりとして、店主の心情を述べて「目出度古郷に帰宅致事相待ち事に候」と記している。
それはまた子弟を江戸店奉公に出している郷里伊勢の親御さん達の心情をも代行するものであった。
これには支配人に向けた『覚』が別にある。
「店支配人役常に和睦之心入を元として萬事念之入」に始まる『覚』は、
鍵や印判を預かる責任の重さを述べ、日常の心得を説き、
「物事志たらくに無之様に可被致候此儀向後相違有之間敷候」と結んでいる。
正徳三年発巳五月の長康の達しである。
この掟書は長康の妻の貞円(法名、俗名は玉)がさらに補足修正を加え、
『本店掟書』としてその後も本店運営の要(かなめ)として大切に受け継がれた。
貞円の掟書は左のとおりであって、長康の掟書を基本にして条項を増やし、
こと細かに江戸店の人たちの自戒自愛を求め、
「目出度古郷ニ帰宅」するを望んでいる旨を記している。
情を述べるとともに毅然たるものを示している掟書である。
定
一御公儀様御法渡(ママ)之儀堅相守可被申候事
(省略・全二十二条)
貞圓
寛暦十一歳
辛巳九月
店中
明治十一年に制定された『更正規則』の大要もここに加えておきたい。
明治維新を経て一変した社会情勢を踏まえながら改訂したのは明治十一年で、
当時の当主清左衛門長篤によって、『更正規則』としてその年の一月に定められた。
それは第一条に「政府御布告ノ旨(ママ)趣堅遵守可致事」に始まる二十七条から成っている。
それを貫いているのは、商売を大切にし、けじめを重んじることが伊勢店の伝統であり、
条文は長康が制定した掟書を踏襲しつつ、平明な表現が用いられ、
いくつかの新しい事項も加えられている。印鑑や帳簿の扱い、前金や内金の禁止、
得意先の業態の注意観察の励行を強く求め、「商法ハ薄利タリトモ確実ナルヲ専一トス、
必高利ヲ望シテ危嶮(ママ)ノ取扱不可致事」と、伊勢店の商法を説いている。
第十五条から第二十四条は店員の生活規範の条項で、門限の遵守を求め、
夜の時間の学習として算術、習字をすすめ、
「修身学商法実用ヲ専一ニシテ戯作等ノ書ヲ読ムヘカラサル事」と戒めている。
最後の第二十七条は「仕入方ハ一大商業ノ盛衰ニ関スル大役ナレハ日夜緒方ノ相場世上ノ景状ヲ注視シ
売買ノ駆引応接其外万事商法ノ活機ヲ過タス注意勉強諸事重役ノ者ト協議ノ上取扱ヒ可致事」と、
幅ひろい視野と細心の営業感覚を求めたものとなっている。
激変する政治、社会環境のなかで、江戸店改め東京店をしっかりと守り、
店員もまた社会の波に足をすくわれぬようにと商人のあるべき姿を説いている条項には、
行間の意も含めて、新しい時代「明治」に処する松阪商人の気組みがうかがえるのである。