小津330年のあゆみ

目次

第一章

第二章

第三章
・江戸店
・十組問屋の結成
・本店と繰綿
・木綿店の創業
・大伝馬町のきびしい問屋推移
・享保の時代
・天明の時代
・向店の創設
・天保、問屋解散令前後
・問屋名鑑と長者番付
・「旧幕引継書」と小津
・支配人籐兵衛
・幕府最後の紙問屋仲間との協約
・江戸店(伊勢店)のこと
・江戸店の組織と暮らし
・算用帳
・目代
・諸役
・子供衆
・支配人と仕分金

第四章

第五章

第六章

メール

ショッピング

小津和紙博物舗

小津産業

前頁次頁


小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


topnext


木綿店の創業
 小津清左衛門長弘の念願であり、次の代の長生に受け継がれたものに、大伝馬町での木綿店進出があった。 長弘が初めて大伝馬町に店をもってから四十五年経った元禄十一年(一六九八)に、大伝馬町で木綿店を創業した。 このころには清左衛門の店は大伝馬町の有力紙問屋になっていたが、 清左衛門の店の東隣の木綿店を同郷の小津屋源兵衛(結城屋源兵衛ともいう)から百五十両で譲ってもよいという話がもち出され、これを買った。 株仲間の制度で商売が縛られていた時代であり、株の持ち主でないと木綿店に進出することはできなかった。 都合よく話がまとまり、店を譲り受けることとなったのである。長弘はそのときは七十八歳ですでに隠居して玄久を名乗っていたから、 この譲り受けは当主の長生の指図で行われた。買い取った店は表口一丈五寸で二間に満たない店舗だった。 紙や繰綿を商っている本店からすれば半分にも足りない店であったが、そのころの木綿店の規模はそれが普通で、 この店の場合でも十間間口の家を六軒で間仕切りして、店を張っていたのであった。 このときから約二十年後の享保五年の間仕切図によって当時の様子がわかる。 すなわち小津の本店が五間七尺でいちばん大きく、本店の筋向いの又兵衛の店の五間がそれにつぎ、 あとは真向かいの五間の家を三間を六兵衛、二間を太兵衛とに分けて店を張っているのがあるだけで、 他はほとんどが一丈五寸、一丈、九尺、八尺等に細かく分割され商売をしている。それが当時の姿であった。

 この当時は、大伝馬町一丁目の木綿問屋に大きな変革が起きた後、それがようやく定着しようとしていたときだった。 寛永年間に創業して力量を示していた木綿問屋四軒がしだいにその力を失って、 木綿仲間が木綿問屋を名乗ることとなった貞享三年(一六八六)から十年余を経て、新しい問屋七十軒が気負って商売をしていた時代であった。 そういう雰囲気のなかで清左衛門は進出したのであり、木綿店は仲間も多く、気心の知れた松阪商人がすでに活躍していたので、 多くの便宜を受けることができた。また、株仲間というのは幕府に冥加金を納める反面、幕府の庇護も受けていたので恩恵も多く、 競合と提携が機能して利を生む商売仲間でもあった。

 木綿問屋は松阪商人にとってもっとも得手な商売であるが、商売がうまくいくと心おごる商人もいた。 本居宣長が書いた同族の話のなかで江戸に進出して「初めは富栄えて・・・(中略)、ほどなく産おとろへて、貧しくなり給ひき」という部分がある。 元禄期の木綿店の出入りでも十九件の移動があったが、この十九件の店舗譲渡のうち小津を名乗る店が二軒あった。 木綿店に進出した商人に松阪出身者がいかに多かったか、売り手も松阪出身、買い手も松阪出身というのは、地縁もあったであろうが、 松阪の人たちがいかに木綿店に心を寄せていたかがわかる。

 小津清左衛門は新たに入手したこの木綿店を、紙商小津清左衛門店とは別個の店として扱っている。 このように小津清左衛門は江戸大伝馬町に二軒の店をもつこととなった。 このとき、玄久(長弘)の胸中はどうであったろうか。身はすでに松阪でも有数の分限者であり、隠居して悠々の日々である。 若い日以来精魂こめて働いてきたあの大伝馬町に思いを馳せつつ、江戸店の栄えを喜んでいたことと思われる。

大伝馬町のきびしい問屋推移
 繁栄する大伝馬町ではあったけれど、そこでの問屋商売にはきびしいものがあった。 幕府の問屋政策は別に記すが、大伝馬町の木綿問屋仲間の店数の変化は、そのきびしさを強く示している。 商売には、好不況があり、いろいろな事情で店の持ち主が変わることがある。 年を加えるにつれて、大伝馬町ではしだいに店数が減っている。 力量のある問屋が残り、その規模を大きくしているのが注目される。 それは問屋の運営が豊富な資力をもたなければやっていけない時世になっていたことを示している。 小津清左衛門にとっては同じ町内の移り変わりであり、清左衛門もまた木綿問屋を出していたのであるから、 同業者の盛衰でもあった。 表は、前後百六十年を超える長期間の木綿問屋数の推移である。 安定した徳川幕府の下での経済政策の変化や、新しい時代への問屋としての対応策の適不適が、 さまざまな結果を生んだ形となって表れている。 江戸商業の歴史は問屋仲間の共済制度(合力)や、幕府の援助政策を知るしているが、仲間の合力にもかかわらず、 再起できずに分散した店が少なくなかったことが示されている。

 小津清左衛門は幸いにもその間を凌いで、大伝馬町に大店を張り得てきた。 享保五年(一七二〇)の図面によれば大伝馬町一丁目には六十数軒の店があり、 清左衛門の店は表口五間七尺と表口1丈の店が並んでいることが記されている。 それから八十年ほど経た文化・文政時代(一八〇四〜一八三〇)の図面では、 店数は二十三軒、持ち主十七人となり、表口十間と表口五間の清左衛門の店の向かい側には、 三井次郎左衛門(駿河屋)の名で三つの店が記されており、長谷川次郎兵衛も三つの店を構えている。 図面を見ただけでも、大伝馬町は豪商並び立つの感じになっている。

大伝馬町木綿問屋仲間の店数推移
 貞享三年(一六八六) 七十四軒
 宝永二年(一七〇五) 七十四軒
 享保六年(一七二一) 六十六軒
 寛延四年(一七五二) 四十八軒
 明和元年(一七六四) 三十二軒
 天明二年(一七八二)   二十軒
 文化六年(一八〇九) 二十六軒
 天保十二年(一八四一)二十一軒
 嘉永四年(一八五一)   二十軒
         (『江戸商業と伊勢店』より)

享保の時代
 栄華の次にはその反動がくる。元禄の活気に満ちた時代は、繁栄を謳歌しつつ江戸が伸び続けた時期であったが、やがてひずみが生まれ、 表面化の傾向を強めながら、宝永、正徳、享保へと受け継がれていった。 この時期、幕府の問屋政策は問屋の商業活動へ介入の度を深めている。 貨幣の改鋳が行われ、物価引下令がだされ、商品の移動の調査などが矢継ぎ早に打ち出され、 加えて日常生活にも倹約令が出され、諸行事を質素にせよとのお触れなど、あらゆる面で影響が生じていた。 紙に関連するものでは、仮名草紙の新規禁止、異教・好色本の刊行禁止など、出版関係についての制約が行われていた。

 このため、庶民の生活を脅かす米の値段も高騰し、そのうえ、江戸の華といわれた火事が多発したこともあり、 幕府の問屋政策の強化はやむを得なかったが、商売の大きな障害となった。

 幕府から仲間結成のお触れが出たのは享保六年(一七二一)で、これは同人や職人に仲間組合をつくらせ、 新製品や奢侈(しゃし)品の禁止の実をあげ、大火の後の市中物価の引下げをねらったものであった。 そこには経済政策のほかに、栄華への反省もあり、生活指導も含まれていた。 この享保六年の仲間結成のお触れは江戸商業の歴史のうえでは、幕府が問屋を公認したことであり、重要な時期とされている。 十組問屋が海難対策を目的として自分たちの手で結成したのとは、成り立ちがちがっているが、幕府が同業者の仲間づくりを求めたので、 十組問屋強化のためには有力な支援ともなった。 そうした点から十組問屋は享保六年に強化確立されたとする見方もなされているが、権力が商売に介入してきたことにはちがいなく、 このため多くの波紋を生んだ。享保九年(一七二四)にはさらに問屋や問屋並商人の仲間組合をつくるよう求めるお触れが出された。 物価対策を強化する目的で、二十一種目の業種が指定されたが、紙屋仲間もその一つにあげられている。 商売人には毎日の商売がある。商売に精を出している最中に、お上の呼び出しや仲間の寄合も度重なり、 しかも帳面の差し出しや報告書の提出(書上げ)が求められるなど、お触れのたびにその対応は慌しかった。 小津清左衛門は紙とともに繰綿の商いをもっている。それに木綿店もある。 どれも生活必需品であるため、幕府の物価対策の対象となった。 このため、江戸店を預かる目代や支配人は政治的判断を伴う重要問題を含んでいる関係から気の休まらぬ日々であった。 このようなことから、江戸と松阪との間には頻々と飛脚の往来があり、つねに綿密な打合せが行われた。

 幕府の商売への介入は商売をしにくくしていたものの、当時の江戸には活気があった。 一方大火によって多くの罹災者が家財や商品を焼いたが、復興は積極的に進められた。 人が集まり、物も集まってくる。幕府と全国の諸大名が復興に力を入れる江戸であった。


ご意見、ご感想等ございましたら、下記までお寄せください。
info@ozu-supply.com

Copyright Ozu Corporation. 1999-2001 all rights reserved.