小津330年のあゆみ

目次

第一章

第二章

第三章

第四章

・時代の流れと小津
・激動の明治維新
・新政府商社の要職に就く
・松阪における小津家
・己卯組結成に参加する
・和紙全盛の時代
・洋紙店を営む
・砂糖問屋を営む
・小津本家と新規事業
・大正後期の主な手漉和紙
・機械漉和紙を扱う
・関東大震災で罹災する
・東京三店の復興
・震災前の店舗
・伊勢店、暮らしのしきたり
・伊勢店のこころ
第五章

第六章

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小津産業

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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時代の流れと小津
 明治維新という激しい変革で時代の流れが大きく変わっていくなかで、 小津清左衛門の店は平常心を失わずに対応する店であった。 松阪の小津本家は江戸三店と連絡を密にし、軽々しく政治的に動くことをせず、 慎重な一商人の道をとっている。それは時代の流れを受けとめつつも、 伊勢店の伝統を踏まえて商売に精を出すことであった。 明治の紙の市場には洋紙がしだいに進出し、新しい様相が展開されてくるのだが、 紙商小津の本命は和紙にあると見据えて商売を進めた。 混乱の時期にも姿勢を崩さず、一途に商売を積み重ねたので、 世のなかが安定するにつれ、創業以来の信用は一層高まり、和紙問屋としての地位を確かなものにした。

 小津の商圏は江戸時代のそれを受け継いで、さらに拡充していった。 東京を中心にした関東一円から東日本全体へと、この商圏は鉄道網が整備されるに伴いさらに広がっていった。

 それにしても維新が小津に与えた衝撃は大きく、松阪でも江戸でも政治の変革による大きな波擣を浴びていた。


激動の明治維新
 新しい時代への足音は松阪本家も江戸店も敏感に感じとっていた。 松阪はもともと京との往復もしげく、しかも伊勢街道の町であり、徳川御三家の一つ紀州藩の領地である。 それに手広く商売をしている者の特権ともいえる情報収集力を備えていたから、 時世の動きはいちはやくとらえ得た。しかし、紀州藩の特別の恩顧を受けてきた小津である。 傾いていく古い勢力と新しく興ってくる力とのはざまにあって、小津清左衛門の心労は大きかった。

 一方、江戸の安否が気づかわれる情勢は日毎に濃くなり、松阪の本家も、江戸店を預かる人たちも、 心休まらぬ日々であった。だが、それらはもはや一商人の力の超えるものであり、 大きな推移には従順であるよりほかはなかった。

 松阪の小津本家に新しい政治の波が及んできたのは、慶応四年(一八六八)四月であった。 京都に樹立された新政府の太政官会計局から、松阪の主だった商人七名に「至急出頭せよ」との呼び出しがかかった。 このため各店では申し合わせを行い、それぞれ主人の代理を立てて京へ上がらせた。 用件は新政府で会計基立金を設立して募債するので協力せよというのであり、 しかも基金は三百万両という大金であった。もちろん引き受けられる話ではなく困惑したが、 幸いに沙汰止みになり、その後すぐ、今度は呼び出された仲間のなかから、 小津清左衛門と長谷川家(次郎兵衛)の両家に会計官御用掛を命じるという沙汰がでるめまぐるしさであった。 両家には道中往来に使用する菊の御紋の入った提灯が下付され、新政府御用商人の役が与えられた。 従来、両家には紀州藩から葵の紋のついた提灯が下げ渡されていたから、それが菊に変わったのであり、 新しい時代をひしひしと感じさせる出来事であった。 このとき、小津は長谷川家とともに一万両の上納金の差し出しを命ぜられている。 これは分割納入であったが、納入が完了しないうちに沙汰止みとなった。

 その年の七月、江戸は東京(とうけい)と名を変えた。 その東京で八月(慶応四年は明治元年と改元された)には御用金の差し出しを命ぜられている。 新政府東征の軍費をまかない、財政を確立させ、国家安定、万民安堵の基になるものであるとして、 小津清左衛門には六万両が割り当てられた。このとき、御用金を命ぜられた主なものは、 三井六家の三十万両、鹿島三家の十五万両等であるから、小津清左衛門の負担金は重いものであった。 江戸の富商たちもこれにはびっくりして減額の嘆願を続けた。 結局、小津清左衛門の場合は一万五千両の上納となった。 それにしても生やさしい金額ではなかった。

新政府商社の要職に就く
 新政府の商業政策は次々に発令され、新しい商業機構が進められていった。 最初に発令されたのは商法司の設置で、慶応四年(一八六八)四月に会計官のなかに置かれた。 東京ではその年(明治元年)九月に東京の富商の主だった者を商法司知事に任命している。 小津清左衛門は鹿島清兵衛や田中次郎左衛門とともに商法司知事となり、 後に加わった三井三郎助や松沢孫八とともにこの役を務めた。 商法司は新しい金融政策や商品流通政策を円滑に実施するのがねらいであった。

 新政府の商業政策はその年の五月に布告された『商法大意』にその要点が示されている。 従来の諸問屋はもとより、商売に携わる者は手広く商売をせよ、諸株仲間の増減は勝ってでよい、 従来の冥加金上納は廃止するというもので、商法局(商法会所)運用の指針でもあった。 そして、十一月には商法会所元締頭取が置かれて、小津清左衛門はその一員に加えられた。 また、商法司に仲間から肝煎(きもいり)二人を選出せよとの指示があり、 このときも長谷川次郎兵衛とともに大伝馬町から肝煎に選ばれた。

 新政府は商法司と並行して貿易商社を設立し、明治二年三月には通商司を置き、 商法司を廃止した。さらに五月には為替会社の創立が指示され、役員が任命されるなど、 あわただしい商業政策が続けられていた。

 このときの小津清左衛門の主な役職をまとめると、次のとおりである。

 商法会所 元締頭取(明治元年十一月任命)
 会計官為替方 元締頭取(明治元年十二月十三日任命)
 通商司為替方 頭取(明治二年五月二十四日任命)
 東京為替会社 総頭取(明治二年十二月現在)

 なお、この当時には民生安定のための開墾事業の推進が官民協力で行われ、 開墾会社が設立されたが、ここでも総頭取に任命された。

 明治二年七月には貿易商社は東京通商会社と改称され、引き続き総頭取を務めた。 なお、大橋太郎次郎も通商、開墾両社の肝煎となっている。

こうした重要な役に任命されることは、名誉なことであったが、 同時に人手と金銭の負担を伴うものであった。 東京貿易会社の場合には身元金として三万両を差し出している。 新政府への協力を求められた富商仲間のうち、ある者は政商を選び、 ある者は従来の家業を守る方向を選んだ。小津は手堅く後者の道を選んで進んだ。


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