「明治時代は和紙全盛だった」と後年、奥山賢蔵(明治三十四年小津入店)が回顧しているが、
小津に入ってくる越前物、烏山物、小川物、甲州物、静岡物等の手漉紙は、
産地問屋から一俵ごとに年間の通し番号の入った品名荷札がつけられて送られてきた。
これらは、「送り物」と呼ばれていて、委託品だった。仮注文で毎月送り込まれ、
年二回の決算期に仕切となる。中間では毎月ごとに売れ行きの具合をみて内金を払う、そういう商習慣であった。
明治になってからの紙業界には洋紙が盛んに進出してきていたが、
和紙は独特の風合と品質で洋紙の及び得ない分野を確保し、業界は好調であった。
小津は一時、事情あって洋紙店を経営していたが、大伝馬町の本店は誇り高い和紙問屋で通していた。
和紙をこよなく愛した奥山賢蔵は「すべてが和紙一色であって、学校の教科書、商人の大福帳から通帳に至るまで、
一切の帳簿類や袋類、荷物に使う掛合羽(かっぱ)、荷札、あるいは傘、雨合羽など、ほとんどが和紙でつくられていた」と語っている。
和紙の取引は独特の慣習があって、商売の利益は売り値よりも仕入値の加減によることが多かった。
そこで仕入係の番頭の手腕が店の業績に左右したので、「売場さん」と呼ばれるは重要な役であった。
奥山はまた「販売方法は今でいう売手市場式で販売外交や出張販売等は行わず、販売係りの店員は店の前の方に座ったままで、
”買いにいらっしゃい、売って上げます”という状態だった」と語っている。
明治時代の生産統計で見ると、明治十七年の和紙の地位はシェア100%であった。
洋紙の生産が開始され、しかも生産を急速に伸ばしてきてから、シェアはしだいに低下し、
明治三十年(一八九七)八〇%、明治四十年六一%、大正元年五〇%と、相対的にはその地位を洋紙に譲っていったことが記録されている。
一般的には明治後期から大正期にかけて洋紙に需要を奪われていくようにみえるが、
和紙には洋紙の侵入を許さない特性を踏まえた需要があり、しかもその需要は盛んであったから、
和紙の市況は底堅いものがあった。
和紙業界の市場規模は機械漉和紙の開発によって拡大され、新たな展開を示した。
それは明治の末から始まり大正時代へと移行した。