小津330年のあゆみ

目次

第一章

第二章

第三章

第四章

・時代の流れと小津
・激動の明治維新
・新政府商社の要職に就く
・松阪における小津家
・己卯組結成に参加する
・和紙全盛の時代
・洋紙店を営む
・砂糖問屋を営む
・小津本家と新規事業
・大正後期の主な手漉和紙
・機械漉和紙を扱う
・関東大震災で罹災する
・東京三店の復興
・震災前の店舗
・伊勢店、暮らしのしきたり
・伊勢店のこころ
第五章

第六章

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小津産業

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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松阪における小津家
 松阪の町も幕府の太政奉還によって、大きな変革が続いた。 慶応四年(一八六八)、紀州藩主徳川茂承が和歌山藩知事になり、松阪には松阪民政局が置かれた。 明治四年(一八七一)にはその民生局も和歌山藩松阪出庁と変わり、明治五年には従来の大年寄、 町年寄が廃され、松阪には第三大区に属することとなるなど、変化が続いた。 小津清左衛門は家業を見る一方で、町の要職を務めた。 松阪が第三大区に属することとなるとその小三区の戸長となり、 明治七年に区制が変わると第二中学区取締になっている。清左衛門の家は代々、 学芸を学ぶ家風であったので、大年寄として奉行所に協力し町のために努めているほか、 松阪の人たちとともに学問や文化の振興に力を入れている。 藩主の学問奨励によって松阪には文化元年に松阪学問所が設けられ、 後に学習館と名称を改めているが、明治二年にその付属の教授所が開設されると、 当主の嗣子(後に長篤)が町の有志とともに教官となって経書を講じているのも、 小津家の家風のあらわれといえよう。

 小津家では天保以来のむずかしい時代を当主として事に処してきた長柱が、 明治四年に隠居し、長篤(当年四十歳)が相続して当主となった。 長篤が明治二十七年六十三歳で没した後は長幸が継ぎ、 国をあげて勃興していく明治時代の当主となった。


己卯組結成に参加する
 東京の和紙問屋仲間が己卯(きっぽう)壱番組紙問屋仲間(己卯組と呼ばれる) を結成したのは明治十二年(一八七九)四月であった。 明治新政府の流通政策は試行錯誤の連続で、旧弊打破を旗じるしに江戸時代の慣習破棄で臨んでいたが、 これが裏目に出て市場の混乱が続いた。自由がかえって無責任な商法をはこびらせ、 それに維新の政治の混乱も加わったので、東京への物資の流入が減ったうえ、粗悪品が出まわり、 物価は上がるという状態になっていた。そこで改めて問屋制度の利点が見直され、 一転して明治三年には問屋仲間をつくることが奨励されることとなった。

 紙の流通も混乱していた。藩制時代の専売制が廃止されたので、新しい集荷制度が生まれるまで、 生産も減り、流通も円滑を欠いていた。これは新政府の施策が立ち直り、浸透するにつれ改善された。

 己卯組は第一次の組合が明治十二年四月から明治十六年九月まで続き、ここで一たん解散し、 翌明治十七年に第二次の己卯組として再建された。この第二次の己卯組は有力な和紙問屋組合となり、 後のちまで業界に重きをなしたのである。小津清左衛門(本店)は第一次組合にも第二次組合にも同志とともに発起人となり、 設立に尽力した。向店も発起人の一員であり、小津の東京二店が参画していたが、 わけても本店は指導的役割を果たしていた。

 このときの本店の支配人は釜田栄蔵で、向店の支配人は長谷川定助であった。

 己卯組、とくに第二次己卯組は和紙取引の正常化に大きな成果をあげた。 己卯組がつくった取引規約は二十一条からなり、取引方法を具体的にあげて、取引の基準を示した。 その要点は「送り状のない荷物は一切取引しない」「荷の売渡しはすべて現金で行う。 もし勘定が滞った者や実態のない仕向けがあったときは、その名を組合に通知して一同取引しない」 「送り荷物の定め口銭は仕切代金の百分の三分五厘を申し受ける」などで、仲間一同が遵守を申し合わせた。

 こうした条項は従来の紙取引の慣習を成文化したものであるが、 己卯組は実力のある問屋の集まりであったから、格調のある商取引を重んじ、 大手和紙問屋の品格が永く守られる原動力になった。

和紙全盛の時代
「明治時代は和紙全盛だった」と後年、奥山賢蔵(明治三十四年小津入店)が回顧しているが、 小津に入ってくる越前物、烏山物、小川物、甲州物、静岡物等の手漉紙は、 産地問屋から一俵ごとに年間の通し番号の入った品名荷札がつけられて送られてきた。 これらは、「送り物」と呼ばれていて、委託品だった。仮注文で毎月送り込まれ、 年二回の決算期に仕切となる。中間では毎月ごとに売れ行きの具合をみて内金を払う、そういう商習慣であった。

 明治になってからの紙業界には洋紙が盛んに進出してきていたが、 和紙は独特の風合と品質で洋紙の及び得ない分野を確保し、業界は好調であった。 小津は一時、事情あって洋紙店を経営していたが、大伝馬町の本店は誇り高い和紙問屋で通していた。

和紙をこよなく愛した奥山賢蔵は「すべてが和紙一色であって、学校の教科書、商人の大福帳から通帳に至るまで、 一切の帳簿類や袋類、荷物に使う掛合羽(かっぱ)、荷札、あるいは傘、雨合羽など、ほとんどが和紙でつくられていた」と語っている。

 和紙の取引は独特の慣習があって、商売の利益は売り値よりも仕入値の加減によることが多かった。 そこで仕入係の番頭の手腕が店の業績に左右したので、「売場さん」と呼ばれるは重要な役であった。 奥山はまた「販売方法は今でいう売手市場式で販売外交や出張販売等は行わず、販売係りの店員は店の前の方に座ったままで、 ”買いにいらっしゃい、売って上げます”という状態だった」と語っている。

 明治時代の生産統計で見ると、明治十七年の和紙の地位はシェア100%であった。 洋紙の生産が開始され、しかも生産を急速に伸ばしてきてから、シェアはしだいに低下し、 明治三十年(一八九七)八〇%、明治四十年六一%、大正元年五〇%と、相対的にはその地位を洋紙に譲っていったことが記録されている。

 一般的には明治後期から大正期にかけて洋紙に需要を奪われていくようにみえるが、 和紙には洋紙の侵入を許さない特性を踏まえた需要があり、しかもその需要は盛んであったから、 和紙の市況は底堅いものがあった。

 和紙業界の市場規模は機械漉和紙の開発によって拡大され、新たな展開を示した。 それは明治の末から始まり大正時代へと移行した。


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