小津330年のあゆみ

目次

第一章

第二章

第三章

第四章

・時代の流れと小津
・激動の明治維新
・新政府商社の要職に就く
・松阪における小津家
・己卯組結成に参加する
・和紙全盛の時代
・洋紙店を営む
・砂糖問屋を営む
・小津本家と新規事業
・大正後期の主な手漉和紙
・機械漉和紙を扱う
・関東大震災で罹災する
・東京三店の復興
・震災前の店舗
・伊勢店、暮らしのしきたり
・伊勢店のこころ
第五章

第六章

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小津和紙博物舗

小津産業

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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洋紙店を営む
 小津清左衛門が洋紙販売に進出したのは明治十三年ころであった。 小津の洋紙販売店は有限会社東京洋紙会社といい、資本金十万円で東京市京橋区通三丁目十一番地にあった。 内外の洋紙を扱い、頭取は小津清左衛門である。実はこの店の設立者は己卯組で、 己卯組の仲間が共同で洋紙販売店を始めたが、すぐには儲からなかったために小津で引き受け、 小津清左衛門の出店の一つとして洋紙販売を続けたのであった。 明治十四年の国産洋紙製造所六社と洋紙販売所八店との業務提携に参加し、 また揺らん期の国産洋紙の販売に協力しているのは、紙商小津の責任感と、 和紙洋紙の敷居を超えた紙への愛着からであった。

 明治二十年に設立された東京十五区洋紙商組合にも加入した。 この組合は後に東京紙商同業組合へと発展するのであるが、 このときには東京洋紙会社も小津洋紙店と商号を変更している。 組合が催す入札会にも参加して、明治三十六年の新規約では入札会の売方(問屋十二名)になっている。 この時代の洋紙業界は発展が期待されながら市場は混乱していて乱売が続き、苦境に立つメーカーもあった。 王子、富士、四日市の三製紙会社が共同洋紙合資会社を設立して、 新聞用紙を特約十五店を通じて販売することになったとき、小津洋紙店も特約店になっている。

 明治三十五年には大手洋紙輸入業者の業者団体である「壬寅会」に参加し、 輸入洋紙について相互に利益を図ることで提携している。 参加した店は福岡正郎、細川芳之助、博進社、大倉孫兵衛、それに小津洋紙店であった。 これらの店は印刷紙(光沢印刷紙類)、模造紙類、漉色薄物等の輸入をしていた。

 なお、小津洋紙店はその後の明治四十年に撤退している。 小津本家が日露戦争後の洋紙業界の動向を見守りつつ決断したものである。敷地は隣の丸善に譲渡した。


砂糖問屋を営む
 小津清左衛門(本店)が砂糖を扱っていた時期があった。維新前後から明治二十年の間で、紙、 繰綿のほかに下り鰹節を扱っていた小津にとって、砂糖は扱うのにふさわしい商品であった。 天保十二年以来続いている砂糖問屋仲間の「太々講」という組合に加入し、一番組問屋になっている。 明治四年十二月に太々講仲間のなかで新政府治下の砂糖問屋組合結成の話が急に進み、 東京府知事に組合設立の願書を提出しているが、このとき小津清左衛門の店を代表して、 支配人宮村安兵衛が署名している。

 この第一次砂糖組合は政府の方針変更で一年足らずで解散になった。 そして、明治十一年にふたたび砂糖問屋組合を設立することとなり、 砂糖問屋仲間が集まって監札下付願を東京府知事に提出した。 この願書には小津清左衛門出店主として土屋彦兵衛が署名している。

 第二次砂糖問屋組合には従来から問屋を営む一番組問屋と、新興の二番組問屋が加入していた。 そのころ、政府の方針は問屋を名乗ることを許していなかった。 そのうえ、市場は国産砂糖に加え輸入物が出まわり、混乱が続いていて、むずかしい時期であった。 組合の役員は仲間が交代で務める約束で、小津清左衛門は明治十五年に肝煎を努めている。

 このように砂糖問屋として活動する小津であったが、明治二十年八月に休業して砂糖卸業から撤退している。 明治十八年と明治二十年ころの小津清左衛門出店主として署名しているのは支配人清水周蔵であった。

小津本家と新規事業
 明治政府の殖産政策もあって、明治初期の実業家には積極的に新事業に進出する者が多かったが、 小津本家はこれに慎重であった。明治十一年制定の支配人職掌大意には「従来商法之外新規開業不可致事」の一項目を置き、 四囲の情勢に溺れて新規事業に走ることを戒めている。

 大伝馬町の木綿問屋仲間の鹿島万平が民間で最初の紡績工場を始めたのは明治三年(一八七〇)であった。 流通資本が生産に乗り出したわけで、異色の出来事であったが、木綿問屋小津はこの新しい事業に理解を示し、 鹿島紡績所の荷を扱った。このとき、大伝馬町木綿問屋仲間の長谷川、川喜田の両店も鹿島紡績所と取引を開始している。 こうしたことがきっかけになって、小津が紡績業に参画することとなったのは明治十九年で、仲間の長谷川、 川喜田両店と提携して東京紡績会社を東京深川の大工町に設立した。資本金五十万円、生産能力一万錘の工場であった。 初めは業績好調で明治二十一年には、前記の鹿島紡績所を買収するほどであったが、 明治二十三年の紡績恐慌に出会って挫折している。

 小津本家が松阪で銀行業に進出し、小津銀行を創立したのは明治三十二年一月十二日であった。 当時は全国各地で地元の有力者が地域経済の発展のために、積極的に銀行を設立していたときで、 小津銀行も地元の要望に応え、小津清左衛門長幸が資本金十万円で設立した。 地元の強い支持と信頼を受け、地元銀行として順調に発展して、大正七年には資本金五十万円に増資している。

 設立後三年経った明治三十五年正月に、地元新聞の南勢新報は正月号の付録『松阪実業大勉強家案内双六』を発行した。 この双六の上がりは小津銀行で、建物(和風)を大きく中央にのせている。 当時の松阪にはすでに先輩格の銀行や企業があったが、そのなかから小津銀行を選び、上がりにもってきているのは、 創立早々すでに周囲から認められる信用高い銀行となっていたからであった。 なお、小津銀行の規程の第一条は「当銀行ハ小津家営業部ノ一部ニシテ小津銀行ト称ス」となっている。

 明治三十六年(一九〇三)九月には小津細糸紡績所を設立した。 事業に進出することに慎重だった小津本家であったが、銀行業を営み不動産管理の業務などがふえるにつれ、 生産事業にも進出を図るようになった。当時の地名で大阪府西成郡歌島村宇野里にあった日本細糸紡績株式会社の工場を買収し、 小津細糸紡績所を創設した。工場の規模は敷地約一万五千坪、建物三千四百六十六坪、精紡機二万錘、撚糸機約八千余錘で、 当時としては大きい紡績所であった。業績もよく、好調に操業を続けた。

 小津本家営業部は好調の小津細糸紡績所を基盤に輸出への進出を企画し、大正九年(一九二〇)には武林洋行を吸収合併して小津武林起業株式会社を設立した。 当時、小津本家は小津銀行を始め、手がける事業がことごとく成功し、事業経営にたいへん意欲的であった。


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