小津330年のあゆみ

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目次

第一章

第二章

第三章

第四章

016・時代の流れと小津
016・激動の明治維新
016・新政府商社の要職に就く
017・松阪における小津家
017・己卯組結成に参加する
017・和紙全盛の時代
018・洋紙店を営む
018・砂糖問屋を営む
018a・小津本家と新規事業
019・大正後期の主な手漉和紙
019・機械漉和紙を扱う
020・関東大震災で罹災する
020・東京三店の復興
021・震災前の店舗
021・伊勢店、暮らしのしきたり
021・伊勢店のこころ
第五章

第六章

小津和紙

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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大正後期の主な手漉和紙
 大正時代後期の主要な和紙について、その産地と原料をここに記しておきたい。 これはかつて和紙研究家の関義城氏が奥山賢蔵の懇請により、小津のために執筆された『和紙の歴史』のなかで、大正時代後期の和紙の産地と使用原料を考察された記録の要約である。

美濃紙----主産地は高知、愛媛、茨城、岐阜の諸県で、茨城は西の内、愛媛は主に柳書院で、岐阜産は紙質上等で価格がもっとも高い。 原料には、楮(こうぞ)、三椏(みつまた)、亜硫酸パルプが使われ、上等品はパルプが二割、下等品は七割以上のパルプを使用している。三椏は一、二割を使う。

半紙----主産地は高知、愛媛、静岡の諸県で、普通半紙(主に高知)は楮、パルプ、藁を原料とし、改良半紙(主に愛媛、静岡)は三椏を原料とするので、柳半紙ともいわれる。

鳥子紙----主産地は福井、静岡の両県で、原料には三椏、亜硫酸パルプ、曹達パルプが使われ、質は局紙とまったく同じ。サイズを施し、澱粉を添加し漉込む。あるものには白土を加える。 上等なものは三椏のみを用い、下等なものはパルプを七割ほど混用する。

雁皮紙、薄葉紙----主産地は高知、岐阜、岡山、静岡、愛媛の諸県で、コピー紙が主要なもの。 原料は三椏であるが、品質の劣るものには藁または反古を混ぜる。 コピー紙の謄写原紙もこの種に属し、上等謄写原紙は純雁皮製の薄葉紙、中等、下等品は三椏を混ぜ、最下等品は三椏だけで製する。

吉野紙、典具帖----主産地は吉野紙は岐阜、典具帖は高知、岐阜。吉野紙、典具帖とも楮を原料とする薄紙で、岐阜は簀典具、高知は主に紗典具である。 この二紙は和紙のなかでもなお需要が伸びている紙で、化粧紙、化粧品包装用紙、製本用紙などとして多少の輸出がある。

東洋紙、唐紙、画仙紙----東洋紙は半紙や美濃紙に質が似ていて中国へ輸出される。唐紙や画仙紙は楮や藁を原料とする。 最近多く製造されるのは改良唐紙で、三椏、亜硫酸パルプ、藁(スベ)を適当に配合したもの。

奉書、杉原紙----主産地は愛媛、福井の両県で、愛媛は藁奉書を多く産する。奉書、杉原、壇紙は皆同一種で、原料は楮、パルプ、藁で、米糊を添加する。 杉原紙は奉書に比べると品質が劣る。

漉返紙----主産地は岡山、東京、広島、福岡、新潟、三重その他各地で生産される。 反古を主原料とし、簡単に叩解し抄紙する。多くは地方的に消費される。

以上のように展望考察され関義城氏は、「半紙と称される紙類も亜硫酸パルプを原料とし、しかも機械漉きによるものが多数を占めるようになり、生漉きの半紙はしだいに減少した」と述べられ、さらに生漉和紙について、
「この当時、純生漉和紙で将来に生命を保つべきものは典具帖、コピー紙、傘紙、元結原紙、水引紙、図引用紙、謄写版用紙、型紙原紙に限られるのではないかといわれた」
と、時代の流れと生漉和紙の将来を展望し、考察を結ばれている。

 当時の手漉和紙の生産高は大正九年(一九二〇)をピークに漸減へと転じている。大正九年(一九二〇)は第一次世界大戦後の好況から一転して大不況に見舞われた時期であり、紙業界もまた混乱と失意に見舞われている。

 小津はそうしたなかで手漉和紙を大切にしつつ、将来を展望して機械漉和紙の扱いを進めた。

機械漉和紙を扱う
 製紙業の先覚者たちが機械漉和紙の開発に挑み始めたのは明治の中期からであった。 手漉和紙は一、二枚漉きから八枚漉きへと用具の改良考案がなされるなど、生産方法に進歩が見られたものの、効率的に限界があり、増大する需要に応じきれなくなっていた。 そこで機械漉きの研究が進められたのであるが、その結果、風合(ふうあい)こそ手漉和紙には及ばないものの、和紙の特長を備え、価格の安い製品ができるようになった。 また、明治後期には、和紙にパルプが使われるようになっていた。 楮や三椏の生産減に加え価格が高騰していたので、これを補うためにパルプ使用が進んだのであった。それは和紙の量産と価格引下げに寄与することとなった。

マニラ障子紙  小津が主に取引した機械漉和紙は芸防抄紙の芸防工場(後の日本紙業)製で、双方の意気がよく合い、親密な取引関係が続いた。 芸防工場は小津に各種の機械漉和紙を供給していたが、なかでも大量に扱われたのはマニラ麻を原料にしたマニラ障子紙であった。

 機械漉和紙の原料としてマニラ麻に着目したのは芸防工場の中内松次郎氏で、中内氏はみずからフィリピンへ行って麻を仕入れ、初めて抄造したのは大正九年(一九二〇)ころであった。 まず、仙花紙(仙貨紙)を抄造し、その成功から障子紙へと進み、強靭で風合の優れたマニラ障子紙の抄造に成功した。 小津ではその特性を高く評価して、一手販売の特約を結び、「ちょうじ印マニラ障子紙」と名づけて、積極的な販売へと乗り出した。 小津は宣伝に努め、扱い店への売り込みを熱心に進めたので、ちょうじ印マニラ障子紙は取引先から歓迎され、急速に売り上げを伸ばした。 小津はそこで本格的な販売体制を固め、いよいよ軌道に乗ろうとしたとき、大正十二年(一九二三)の関東大震災に見舞われた。

 関東大震災の被害があまりにも大きかったので、経済の立ち直りは当分絶望とみられたが、復興は意外に早く、紙製品の需要も回復し、とくに大衆向け製品であるマニラ障子紙は市場で歓迎された。

 昭和に入ると、ちょうじ印マニラ障子紙への力の入れ方はさらに強まり、昭和四年(一九二九)に合資会社小津商店になってからは、ますます積極的な販売が続けられた。

 同障子紙の販売には従来とちがった手法もとられた。 積極売り込みに加え、好条件の取引条件「残品引取、勘定急がず」を掲示したうえ、宣伝を派手に行い景品付招待付の特売も行われた。 この好評に刺激され、業界からは何種類ものマニラ障子紙が発売されたが、それにもかかわらずちょうじ印マニラ障子紙はよく売れ、他を大きく引き離していた。

ネオンサイン
合資会社小津商店
昭和五年(一九三〇)社屋にネオン看板を設置

 この宣伝で大きな話題を呼んだのは、白塗りのトラックに「ちょうじマニラ障子紙」と大書して走らせたのと、大伝馬町の昭和通りに面した店の屋上に設けたネオンサインである。 こうした宣伝は和紙業界では異色であった。 昭和九年(一九三四)に実施した特売大招待会は大掛かりのもので、取引先を招いて生産工場(芸防工場)見学、それから巌島、九州各地旅行という企画であった。 工場見学では大竹駅から工場までの道路を万国旗とマニラ障子紙の紙旗で飾り、工場の門前にはマニラ障子紙の現品を積み重ねて歓迎アーチを設けるなど、熱のこもった招待が行われた。

 こうしたちょうじ印マニラ障子紙は全国に商圏を広げ、類似品を寄せつけずに独走を続け、小津の看板商品の一つとなっていった。

 マニラ障子紙の発売と前後して売り出された商品に薄葉の化粧紙「アサヒ紙」がある。 これは市場で人気のあったキレー紙に対抗して、芸防工場がつくったもので、本店とともに向店も扱い、現物見本の配布宣伝を行うなど力を入れた。 また同じころにマニラ麻の截ちくずを利用してつくったマニラちり紙(野菊)も販売し、市場から好評を受けた。 このように大正中期から昭和にかけて、機械漉和紙の新しい製品が次つぎに発売されている。和紙に新しい時代が訪れていたのである。

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