小津330年のあゆみ

目次

第一章

第二章

第三章

第四章

第五章

・個人経営から法人へ
・合資会社小津商店の設立
・本店最後の決算書
・伊勢店に新しい風
・戦時統制経済と小津
・軍需ふえる
・狭められる経済活動
・綿を営業品目からはずす
・小津商事株式会社、株式会社鱗商店設立
・企業整備−さらに統制強化へ
・紙糸や代用ガラス等を扱う
・風船爆弾と小津
・満州と小津
第六章

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小津産業

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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紙糸や代用ガラス等を扱う
 綿の統制強化を見越して、いちはやく綿花の業務をはずしたが、それに代わる商品として着目したのが、 紙糸であり、紙紐であった。戦時統制経済への対応は比較的早く着手されている。 初めのうちはその原紙を扱っていたが、しだいに製品を扱うようになり、それは麻袋の代用として砂糖袋へ、 さらにこれを契機に紙織物から紙糸でつくった防虫網へと商品の幅を広げ、物資不足の時局に対応していた。 とくに防虫網は軍から認められ、納入契約が結ばれて前渡金さえ支給され、期待される商品となった。

 軍の示唆で商品化した代用ガラスもユニークな製品であった。これはベニヤ板の枠にパラフィン紙を貼り合わせた ものであるが、すでに板ガラスの補給が困難になり、しかも、ガラス窓の破損が相次ぐときであったから、これも 希望のもてる商品であった。代用ガラスは終戦によって軍需は終わったが、物資不足の時代であり戦後には国鉄が 購入してくれたので、小津で納入した代用ガラスが駅舎の窓に使われているのがよく見られた。

 小津で開発したといってもいい商品のなかに、脱脂綿の代用品として紙綿があった。これはまだ戦争が激化していないころ、 化粧品会社の女性の社員が来社して、アメリカで紙綿が使われていることを語り、「綿はいずれ不自由になると思う。 紙綿をつくってほしい」と依頼されて製品化したものであった。脱脂綿が不自由になるにつれて需要は増え、軍需工場に 多くの女子が動員されるようになると、「産報綿」(産報=産業報国の略)と名づけられて、各地の工場へ納めたのだった。

 こうして細々ながら仕事を続け、ついに終戦となったのである。店は戦災を免れたものの、ある者は家を焼かれ、 ある者は肉親を失い、応召して戦地へ行った者、店務を離れて組合に籍を移すこととなった者など、それぞれに戦争が もたらした困難かつ悲惨な状況に置かれていた。

 店を構成する者はほんのわずかな人数となっていた。


風船爆弾と小津
 太平洋戦争のさなかに日本軍が飛ばした秘密兵器「風船爆弾」の話は、奇抜なアイデアとして語られているが、 あの風船爆弾の材料として使われた和紙の開発に、その着想の時点から小津商店が関与して目的の紙の完成に終始協力 したことは、知る人がほとんどなく、風船爆弾の研究が昭和四年にすでに始められていたことは、公的な記録にも残されていない。

 風船爆弾というのはこんにゃく糊で強化加工した和紙で大きな気球を作り、約一万メートルの高空に浮揚させ、偏西風に 乗せてアメリカ大陸へ向けて飛ばし、彼の地で爆発発火させて火災を起こさせる仕組みになっていた。昭和十九年秋から 二十年四月にかけて約九千個が茨城や福島の海岸から秘密裡に発射(放球)された。

「紙について相談したいことがある」という電話が、国産科学工業研究所というところから入ったのは昭和四年であって、 店員の一人が差し向けられた。国産科学工業研究所は目黒区の丘に囲まれた場所にあった。そこで風船爆弾の構想を 打ち明けられ、秘密を守ること、第三者には気づかれず、しかも急げという要請を受けた。重要な要請だったので店の 幹部と担当者だけの秘密事とし、作業が進めたれた。まず、店にある四、五十種類の紙を片っぱしから実験に供した。 しかし、そのどれもが満足すべき結果が得られず、特別な手法を用いて新しく漉くよりほかはないと、小津の取引先である 埼玉県小川の紙屋(産地問屋)の協力を求め、その店の仕事をしている紙漉屋で漉いてもらった。風船爆弾の気球用として 要求される髪の質は高度のもので、楮の生一本でつくる小川の和紙(細川紙)でも、すぐには要求どおりの強度と密度の 紙は得られなかった。しかし、紙漉きを引き受けてくれた人たちの熱心な研究と努力で、約四ヶ月でほぼ満足できる紙の 抄造にこぎつけることができた。紙漉きを担当してくれたのは産地紙問屋新井商店の仕事をしている久保さんという紙漉屋であった。

 風船爆弾用の紙は六尺(約二百センチ)×ニ尺二寸(約七三センチ)の紙に、別に漉いたニ尺二寸4方の紙を三枚並べて貼り、 二層にした。糊はコンニャク糊で二十数回塗り重ねた。

 この風船爆弾用紙は小津が納入した。その後、紙の統制が始まってからは、納入は組合に移譲された。また、手漉きには 生産量に限界があるところから機械漉きへの転換が行われ、日本紙業の伊野工場等が機械漉きの試作を担当し、約一年で 量産態勢ができあがっている。風船爆弾の研究を推進したのは近藤至誠氏であった。近藤氏は士官学校出身で軍籍にあった 当時から風船爆弾の構想をもっていたという。俊秀の人であったが、風船爆弾が正式兵器に制定される日を待たず病気のため 世を去っている。

 風船爆弾研究の経緯や小津との関係については、小津の関係者も公の場では多くを語ろうとしなかったので、今日までこの部分は 空白であった。しかし、『小津三百三十年史』を編集するに当って、当時の担当者岡村政三氏の新たな証言を得たこともあり、 歴史的事実として記録にとどめることは有意義であるとの判断から、とくに記述した。


満州と小津
 満州は当時の日本にとって大きな夢の対象であった。小津商店が満州への輸出を手がけるようになったのは事変発生後しばらくしてからで、 扱い量は年を追ってふえていった。主な扱い品は海紙や川表紙、黄川紙などで、なかでも海紙が圧倒的に多く、静岡物であった。満州には 小津に肩入れする販売店があって、その協力や担当者たちの努力が実って、商売は順調に進んでいった。しかし、満州でも統制がしだいに進み、 これ以上に商売を伸ばすには現地法人を設立することが必要との判断から、昭和十六年に現地法人満州小津商事株式会社(資本金十五万円) を新京特別市(長春)に設立して、社員を七名送り出している。満州での活動は当局の意向で左右される要素が強かったが、それでも満州には 建国の情熱があり、需要は旺盛であった。多くの制約はあたものの成績がしだいにあがり、大きな期待がかけられていた。紙の販売のほかにも 紙加工品も扱って全満州の郵便局に納め、あるいは製紙工場の建設を企画するなど意欲的であった。

 しかし、戦局の悪化というきびしい状況下では諸企画も進まず、ついに昭和二十年の終戦を迎え、満州小津商事株式会社はそのすべてを失った。 終戦のころは現地に赴任していた社員七名も、ある者は現地入隊、ある者は現地応召など、次つぎに軍務に服したので、満州小津の営業活動も ほとんど休止状態にさえなっていた。終戦に際して社員たちは抑留され、家族とともに辛苦の生活を強いられたが、それぞれに帰国することができた。 おそいものは昭和二十四年の帰国であったが、無事に帰れたのは不幸中の幸いであった。

 台湾への進出も試みられた。かねて取引のあった二社と組んで三社出費でちり紙工場を買収し、砂糖袋用の原紙をつくることとなり、小津からは 橋爪が担当となり、渡台するなど準備が進められていた。しかし、この計画は途中で挫折のやむなきに至っている。

 昭和十八年三月、第二回目の橋爪の渡台のときであるが、乗船した高千穂丸が台湾へ向けて航行中にアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。 このことによって台湾への航海の安全は保たれないことがあきらかになり、計画を放棄したのであった。高千穂丸遭難の際、橋爪は洋上に投げ出されて 海水に浸りつつ漂うこと五十数時間に及んだが、幸運にも救助の飛行機に発見され、駆潜艇に救われた。高千穂丸は多くの犠牲者を出し、 生存者はごく僅かに過ぎなかったので、橋爪の生還はまさに九死一生のそれであった。



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