ビルの建設
|
戦後の商権復活とともに小津グループの課題の一つは不動産の充実、ビル建設であった。それは関東大震災に際して地震に伴う火災で、
店舗、蔵もろとも商品を焼失させ、大きな損害を受けた経験があり、さらに戦時中に焼土と化した惨状も目の当りにしているからであった。また、
小津は江戸時代から不動産を多く所有していた。その伝統に応える意味もあって、ビル建設には小津グループは協力して当った。
昭和三十八年完成の小津ビルから始まり、本栄ビル、小津本館ビルと進んで、三ビルの建設が完了している。三ビルとも江戸時代の大伝馬町ゆかりの地に
建設された。なかでも小津本館ビルは創業三百年記念事業であった。
●小津ビル
昭和三十八年五月に完成した小津ビルは東京都中央区日本橋本町二丁目ニ番地に建設され、地上九階、地下二階、延面積7988平方メートルである。
●本栄ビル
昭和四十五年九月に完成した本栄ビルは東京都中央区日本橋本町四丁目ニ番地に建設され、地上九階、延面積1891平方メートルである。
●小津本館ビル
昭和四十六年五月に完成した小津本館ビルの地は、紙商小津発祥の地である江戸大伝馬町一丁目の角に当る東京都中央区日本橋本町三丁目二番地に建設され、
地上十階、地下二階、延面積9146平方メートルである。
|
紙の博物館へ
|
大判一枚漉和紙に奥田元宋画伯が精魂を傾けて描かれた「聖徳太子御画像」は、小津商店から財団法人紙の博物館へ寄贈された。
一枚漉和紙としては最大級の天地3.56メートル、左右2.7メートルの鳥取県因州和紙で、紙祖聖徳太子の御徳を讃え、和紙の発展と感謝の念から
実現したものである。昭和四十七年四月十日に除幕式、贈呈式が紙の博物館で行われた。
また、同時に抄造された同質同大の手漉紙に、児玉希望画伯によって描かれた「四季図」は、小津本館ビルの壁面に掲げられている。児玉画伯が
小津の要請に応えて執筆されたものである。
|
お竹大日如来のゆかり
|
承応二年以来、小津本店のあった土地には、いま小津本館ビルが建っているが、この土地は江戸の草創名主で、創業者小津清左衛門長弘の主人である佐久間善八の
屋敷跡であった。ここはお竹(於竹)大日如来ゆかりの地でもある。寛永年間のこと佐久間家にお竹という慈悲深い下女がいて、信心も篤く、つねに称名を唱えては、
貧しい人たちや悩む人たちに慈悲を怠らなかったので、お竹大日如来として後のちまでも慕われた。お竹さんの使ったという井戸は小津の大蔵あたりにあったといわれている。
小津の店にはお竹大日如来の木像(約三尺という)が伝えられていて、関東大震災で焼失するまでは毎月十九日の命日に開帳し、お祀りするのが例となっていた。
小津本館ビル建設に当り、ビルの道路に面した一角に「史跡、於竹大日如来井戸跡」の碑を建て、その縁起を刻んでゆかりを伝えている。
於竹大日如来縁起(碑文)
於竹大日如来は寛永十七年(十八歳の時)山形県庄内よりでて、当時の江戸大伝馬町馬込家の召使となる。その行いは何事にも親切で 一粒の米 一きれの野菜も決して
粗末にせず貧困者に施した。そのため於竹さんのいる勝手元からはいつも後光がさしていたという。出羽の国の行者乗蓮と玄良坊が馬込家をおとづれ「於竹さんは羽黒山の
おつげによると大日如来の化身である」とつげた。主人は驚き勝手仕事をやめさせ持仏堂を造り その後念仏三昧の道に入る。これが江戸市中に拡がり 於竹さんを拝もうと
来る人数知れずと言う。
於竹さんの詠んだ歌に
手と足はいそがしけれど南無阿弥陀仏
口と心のひまいまかせて
延宝八年五月この世を去る 行年五十八
五代将軍綱吉公の母堂桂昌院の歌に
ありがたや光と共に行く末は
花のうてなに於竹大日
於竹さんが愛用し貧困者が市をなしたと言う有名な於竹井戸はこの地にあった。
昭和四十六年五月吉祥
史蹟 於竹大日如来保存会
注・碑文に「馬込家」とあるのは、佐久間家と馬込家を同一とする説によったものである。
|
奥山賢蔵−小津グループの功労者
|
大正・昭和の紙商小津が語られるとき、多くの場に奥山賢蔵の名が出てくる。奥山が小津清左衛門の本店に入店したのは
明治三十四年四月(1901)であった。明治二十一年十二月十日の生まれであったから満十二歳のときである。三重県津市栗真町屋町
七六四で生まれ、子供衆として入店してから生涯を小津とともに生き、和紙とともに生きた人である。江戸伊勢店の伝統が色濃かった
明治の入店だったので、店のしきたりは先輩からみっちりと仕込まれての店奉公であった。
奥山賢蔵の店での呼び名は「長兵衛どん」であった。入店早々の新子のときに番頭から「お前のおじいさんの名前は何という」と
聞かれ、「ハイ、長兵衛です」と答えると、「では、お前は明日からは長兵衛ということにする」といわれ、長兵衛どんになったという。
長兵衛どんは、子供衆時代は土屋さんという隠居に目をかけられ仕込まれた。奥山賢蔵のゆたかな人柄は天性のものであろうが、
よき先輩がいて磨かれたものであった。
手漉和紙を愛する奥山であったが、機械漉和紙のよき理解者でもあった。合資会社小津商店の発足、販路拡張、扱い商品の充実、
店の慣行の近代化など、関与した仕事は数多い。奥山がその手腕を発揮したもに、和紙業界の発展振興がある。小津を代表しての
外部の仕事は、小津の幹部役員の合意や指示があってのことであるが、奥山賢蔵の力量と熱意がよい結果を実らせた。先輩の仕事を
引き継いだ己卯組、統制に対処するための日本和紙問屋商業組合の設立、温古会、辰巳会の結成運営など、和紙業界のために奔走した
事例は多い。
小津グループの念願であったビル建設推進の中心的役割を果たし、また、和紙への感謝を具現したものは紙の博物館への「聖徳太子御画像」
寄贈である。奥山賢蔵は昭和五十年十二月二十四日、人びとの敬慕と愛惜を受けつつ逝去した。生前、小津商店代表社員を始め小津グループ
各社の代表役員を歴任、業界団体の代表者や役員に就任し、昭和二十九年十二月にはマードック賞を受賞した。享年八十七歳であった。
|
小津グループの形成
|
自由を回復した日本経済は力を充実させるとともに急速な成長をみせ、紙業界もまた発展を続けた。小津の活動も幅を広げて、
扱い量をふやし続けていった。「和紙の小津」は「和洋紙の小津」となり、扱い品目も急速に拡大した。こうした情勢のなかで、
昭和二十三年には洋紙販売を目的とする本町商事株式会社が設立された。本町商事はその後昭和三十二年に小津産業株式会社の
洋紙部門と合体し、小津洋紙店(現在の小津紙商事株式会社)となった。さらに株式会社大成洋紙店を加え、営業三社が形成され、
株式会社小津商店、本栄株式会社とともに小津グループが形成されている。グループ各社はそれぞれに独自の企業活動を行う一方、
連係を密にして多様化するニーズに対応しており、その活動から生まれる分担と総合の成果が期待されている。
不動産部門は株式会社小津商店が本栄株式会社とともに推進しており、ビル建設を次つぎに実現し、その運用を行っている。
小津はいま、紙とともに生きて創業三百三十年を迎え、生々発展の確信のもとに大きな目標を掲げ、次の新しい世紀に向けて、
その歩みを進めている。
|