商人が藩や幕府へ臨時の上納金を差し出したり、御用金の指図を受けてそれに従うのは、富を積んだからには義務でもあり、藩の御用にそれなりの協力ができることは名誉なことであった。
だが、巨額の御用金を命ぜられることが続くと、負担がきびしすぎ、猶予を願い出ることも起こる。
小津清左衛門もしばしば紀州藩に御用金を上納し、後には幕府からも江戸店へ御用金の命があり、紀州藩に加えて幕府への上納金も増えていく。
紀州藩への御用金は紀州藩御為替御用、紀州藩江戸表御為替御用の仲間とともに申し付けられており、幕府の御用金は江戸大伝馬町の富商として長谷川次郎兵衛の江戸店などと一緒に仰せ付けを受けている。
御用金の記録は小津の文書に残されているもののほかに、長谷川家の記録『江戸商業と伊勢店』のなかにも小津が上納した御用金のことがたびたび出てきている。
また、三井の記録のなかにも小津が御用金を上納した記事や、御用金を仰せ付けられて困惑する松阪商人の有様が記されているが、松阪商人が紀州藩へ納めた御用金の額は、どの店の場合でも千両か千両以上であったから、きついことであった。
小津の文書や他家の記録に拠りつつ、その一端を記しておきたい。
紀州藩へは前から御用を勤めていたが、はっきりと記録されているのは宝暦四年(一七五四)の御用金上納のことであって、紀州藩からその功を嘉(よみ)されている。
翌年、松阪御為替組、翌々年は江戸表の御為替組が他の松阪の富商とともに御用を命ぜられ、その都度上納している。
御用金は一応は貸上金であり、本来は返却される性質のもので利息も支払われるが、返してもらえるときもあれば、永久上納(永上金)になった場合もあった。
反面、紀州藩から御為替組の運用資金として、三千両が仲間に利息なしで貸し下げられるということも行われている。
長谷川家の記録には寛政三年(一七九一)に小津が殿村家と共同で二万五千両上納したことや、寛政四年には小津から二千両、長谷川から一千両を貸し上げたことが記されており、天明六年(一七八六)や天明七年(一七八七)に多額の上納が行われ、しばしばのことに商人仲間の嘆きが深まったという。
小津の記録を中心に御用金の一部を記すと、