小津330年のあゆみ

目次

第一章

第二章

第三章

第四章

第五章

・個人経営から法人へ
・合資会社小津商店の設立
・本店最後の決算書
・伊勢店に新しい風
・戦時統制経済と小津
・軍需ふえる
・狭められる経済活動
・綿を営業品目からはずす
・小津商事株式会社、株式会社鱗商店設立
・企業整備−さらに統制強化へ
・紙糸や代用ガラス等を扱う
・風船爆弾と小津
・満州と小津
第六章

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小津産業

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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狭められる経済活動
綿を営業品目からはずす
 戦時統制経済が直接的な形で小津商店に影響を及ぼし始めたのは、昭和十二年の輸出入品の統制に綿が 組み込まれたことからだった。これは昭和十三年には綿糸の切符制へと発展したので、小津商店は 昭和十三年四月二十五日に営業目的からの綿の売買を抹消している。

 綿は小津にとって紙とともに誇り高き扱い品であった。江戸時代には大伝馬町繰綿問屋二十一番組に 加入し、ときには仲間の惣代として活躍してきた小津である。明治以来も、また合資会社小津商店として 発足してからも、綿は紙とともに大きな柱であった。それだけに営業品目から綿をはずすことは感慨深い ことであり、時代の流れを示す出来事でもあった。


小津商事株式会社、株式会社鱗商店設立
 昭和十三年四月に制定された「国家総動員法」は基幹産業から小企業、一個人までも包み込む基本立法で あったため、この法令によって経済活動は次つぎに規制され、狭められていった。しかし、企業は許された 範囲のなかで最大限に努力し、商売に励まなければならない。そうした環境のなかで最初に設立したのが 小津商事株式会社であった。

 資本金は、臨時資金調整法により二十万以上が規制されたため十八万とし、昭和十四年十二月六日に設立した。 営業目的は「和用紙および帳簿など雑貨の輸出入ならびにその製品販売」で、ここへ小津商店貿易部の仕事を そっくり移した。統制が進むので仕事を系列ごとに整理しておいて対処しようとするものである。

 昭和十四年といえば中国での戦線は拡大を続け、戦果が発表され、満州国建設に意欲を燃やしていたときで あるが、国際的緊張はますます高まり、物資がしだいに不足し、軍需優先のために民需が一層縮小させられて いったときである。

 紙の統制は和紙と洋紙では趣を異にしていたから、小津商店は和紙を主体として統制の枠組みに入り、貿易 主体の小津商事株式会社とともに、和洋紙それぞれの統制機構のなかで活動を続けた。しかし、紙商の営業は しだいに狭められてきており、時局も深刻化していくなかで、和紙問屋はこれからどうしたらいいかが、同業者 共通の大きな課題となっていた。

 その結果生まれたのが昭和十六年七月十二日創立の日本和紙問屋商業組合である。この組合は取引を組合に 一元化し、共同計算制をとり入れたのが特徴であった。この問屋組合の結成の経緯については後の項(戦後の 商権復活運動)でも触れるが、結成に小津は主唱者となっている。そして小津商店の代表社員佐野助三郎が 創立総会で推されて理事長となった。

 昭和十六年八月、日本和紙統制株式会社がメーカー、問屋、その他によって設立された。これにより、和紙の 統制は一段と整備されたが、一足先に誕生した日本和紙問屋商業組合はその配給代行店となり、共同計算制の もとに小津商店もその一員として、商権を守り、営業を続けた。

 株式会社鱗商店を設立したのは昭和十六年五月一日であった。資本金十八万円。鱗商店の設立はその一ヵ月後に 出された商工省の「和紙卸売業者を以て道府県商業組合を結成せしむるための通牒」にあらかじめ対処するため 急きょ設立されたものであった。このときはたとえ販売実績があっても別会社をつくって、道府県和紙商業組合 (新設)に加入しないと、商売ができなくなるという事態だったのである。鱗商店は「東京府内における和洋紙、 加工紙ならびに文具類の卸売」を営業目的としていた。

 注・鱗商店は戦後、木村産業株式会社(http://www.kimsco.co.jp/)に営業を引き継いだ。


企業整備--さらに統制強化へ
 戦局の苛烈化は商業の存在を許さないほどの深刻なものとなっていった。物資が急速に減少してきたうえ、 商業従事者は微用令によって軍需工場へ微用される時代だった。昭和十六年以来、洋紙は洋紙配給統制規則に よって統制される時代だった。昭和十八年五月の通達「道府県洋紙商業組合整備要網」で、それがされに強化 されることとなり、東京市の場合、一ヶ月平均仕入金額が平均五万円目標で企業は合併せよというものだった。 月平均五万円の仕入金額といえば相当規模の店でなければそれだけの実績は得られなかったから、合併するか、 洋紙の扱いをやめるかを選ばなければならなかった。このとき、小津商店と鱗商店は親しい同業者三十名で団結して 東和洋紙店をつくり、洋紙の販売を新会社に委ねた。東和洋紙店の実績は月平均六万円であった。

 しかし、紙の統制はそれだけにとどまらなかった。昭和十九年三月になると、洋紙、板紙、和紙の三統制会社は 発展的に解消して、一元的な紙統制株式会社をつくり、ここに元売組合を接収するという方針が打ち出され、接収した 営業権は補償するという指示が出た。こうして設立された紙統制会社は昭和十九年六月二十一日に業務を開始したが、 元売組合がここに吸収されたため、業者はその業務を失ってしまった。わずかに府県単位の商売をしている者、 東亜紙貿易株式会社などへの輸出業務代行をしている者の業務が残っただけであった。

 しかし、現実の市場は相つぐ戦災で、需要も輸送もその機能を失いさらに人手もなく、連日の空襲下にもはや 正常な運営は不可能の状態になっていた。小津商店は、すでにその本来の姿である紙問屋の業務を、すべて統制組合に 吸収された形となっていたが、統制外の物品を扱うことで、その営業活動を必死に続けていた。



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関連HP 神戸大学附属図書館:和紙問屋商組 http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/ContentViewServlet?METAID=10042895&TYPE=HTML_FILE&POS=1&LANG=JA