昭和十三年四月に制定された「国家総動員法」は基幹産業から小企業、一個人までも包み込む基本立法で
あったため、この法令によって経済活動は次つぎに規制され、狭められていった。しかし、企業は許された
範囲のなかで最大限に努力し、商売に励まなければならない。そうした環境のなかで最初に設立したのが
小津商事株式会社であった。
資本金は、臨時資金調整法により二十万以上が規制されたため十八万とし、昭和十四年十二月六日に設立した。
営業目的は「和用紙および帳簿など雑貨の輸出入ならびにその製品販売」で、ここへ小津商店貿易部の仕事を
そっくり移した。統制が進むので仕事を系列ごとに整理しておいて対処しようとするものである。
昭和十四年といえば中国での戦線は拡大を続け、戦果が発表され、満州国建設に意欲を燃やしていたときで
あるが、国際的緊張はますます高まり、物資がしだいに不足し、軍需優先のために民需が一層縮小させられて
いったときである。
紙の統制は和紙と洋紙では趣を異にしていたから、小津商店は和紙を主体として統制の枠組みに入り、貿易
主体の小津商事株式会社とともに、和洋紙それぞれの統制機構のなかで活動を続けた。しかし、紙商の営業は
しだいに狭められてきており、時局も深刻化していくなかで、和紙問屋はこれからどうしたらいいかが、同業者
共通の大きな課題となっていた。
その結果生まれたのが昭和十六年七月十二日創立の日本和紙問屋商業組合である。この組合は取引を組合に
一元化し、共同計算制をとり入れたのが特徴であった。この問屋組合の結成の経緯については後の項(戦後の
商権復活運動)でも触れるが、結成に小津は主唱者となっている。そして小津商店の代表社員佐野助三郎が
創立総会で推されて理事長となった。
昭和十六年八月、日本和紙統制株式会社がメーカー、問屋、その他によって設立された。これにより、和紙の
統制は一段と整備されたが、一足先に誕生した日本和紙問屋商業組合はその配給代行店となり、共同計算制の
もとに小津商店もその一員として、商権を守り、営業を続けた。
株式会社鱗商店を設立したのは昭和十六年五月一日であった。資本金十八万円。鱗商店の設立はその一ヵ月後に
出された商工省の「和紙卸売業者を以て道府県商業組合を結成せしむるための通牒」にあらかじめ対処するため
急きょ設立されたものであった。このときはたとえ販売実績があっても別会社をつくって、道府県和紙商業組合
(新設)に加入しないと、商売ができなくなるという事態だったのである。鱗商店は「東京府内における和洋紙、
加工紙ならびに文具類の卸売」を営業目的としていた。
注・鱗商店は戦後、木村産業株式会社(http://www.kimsco.co.jp/)に営業を引き継いだ。