小津330年のあゆみ

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目次

第一章

第二章

第三章

第四章

016・時代の流れと小津
016・激動の明治維新
016・新政府商社の要職に就く
017・松阪における小津家
017・己卯組結成に参加する
017・和紙全盛の時代
018・洋紙店を営む
018・砂糖問屋を営む
018a・小津本家と新規事業
019・大正後期の主な手漉和紙
019・機械漉和紙を扱う
020・関東大震災で罹災する
020・東京三店の復興
021・震災前の店舗
021・伊勢店、暮らしのしきたり
021・伊勢店のこころ
第五章

第六章

小津和紙

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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関東大震災で罹災する
 大正十二年(一九二三)九月一日の関東大震災により小津清左衛門東京店は大きな被害を受けた。 大伝馬町の本店は店舗と蔵が被害にあい、その日の夕刻には延焼してきた火事によって灰燼に帰している。 その日、大伝馬町界隈は朝から雷雨であったが、正午近くにはすっかり晴れ上がり、活気のある夏の日となっていた。 そこへ突然の烈震である。がっしりと造られていた屋根瓦もずれ落ちた。 このとき店にいたある店員は、後日「店では平素から防火にやかましかったので、地震が一まずおさまると店員たちはきまりどおりに土蔵の窓の目塗りにかかったが、塗り終えて土蔵に入ったら、普段は暗い土蔵のなかに屋根から明るい光が射し込んでいるのでびっくりした」と語っている。

 店の人たちがしだいに広がってくる火の手に危険を感じ出したのは、午後二時ころからであった。 そこで支配人の指図で避難することとなった。 店には平常は大八車が何台もあったが、地震の後、乞われるままに貸してしまっていて、いざ自分たちが使うときになったら小型の荷車二台しか残っておらず、それに非常持ち出しの帳簿をまず積み、鍋釜、米、梅干一樽を積み、「行先は宮城前広場の楠公銅像のところ」と申し合わせ、店を後にしている。 迫ってくる火の手を避けつつ、茅場町から日本橋交差点を経て宮城前へ向かった。

 大伝馬町の店に火がまわったのは午後四時ころだった。 様子を見に戻った店員(子供衆(こどもし))の一人が、店のひさしに火のつくのを見ている。 「ああ、店が焼ける!」と息をのんだのであるが、それが店を見た最後であった。 大伝馬町に迫ってきた火は本石町、十軒店方面から延焼してきたもので、店が蔵もろとも焼けたのは五時ごろであった。 この日、店には蔵一杯に荷が入っていた。 とくにマニラ障子紙は需要期に向けて積極的に売り込もうとしていたときで、ちょうどこの日に入荷した荷が奥の蔵はもちろん、店の前にも積み込まれていた。

 この日、午前中から判取りに出た者がいて、そのなかで子供衆三人が帰ってこず、店の者は心配し続けたが探すすべもなく夜を迎えた。 このため楠公銅像傍の芝生で夜を明かすこととし、焼跡に避難先を書いた立て札を立てて、翌日もその場を動かず、三人の安否や店の縁故者の家族の身などを案じつつ、上野公園や心当たりのところへ人を出して、皆で心配していた。 三日になってからとりあえず取引先の東製紙(高田馬場にあった)へ移ることとし、九段を経て高田馬場へ向かった。

 一同を喜ばせたのは行方のわからなかった三人が取引先の人たちの助力を得て、避難先へ戻ってきてくれたことであった。 そして、全員の無事が確認された。

「東京に大震災」の報に松阪の本家は憂色に包まれていた。一報ごとに災害の度は大きくなる一方であった。 しかし、詳報は入らず、本家では小津清左衛門(長謹)を始め本家をあげて東京の人たちを案じ続け、店員の両親や家族には目代を通じて慰問するとともに、日ごろから崇拝する伊勢神宮、小津家の守護神、初瀬観世音に祈願し、東京店の人たちの無事を祈っていた。

 東京が一面焼野原となり、店舗も商品も焼け、取引先もほとんど罹災したので、在京の幹部によって店の応急対策が決定され、指示がでたのは九月五日であった。 それによると幹部は東京に残って罹災後の処理に当り、店員は一時解散して伊勢に戻り、次の沙汰を待てというもので、一律に十五円ずつ渡された。 このため店員は折からようやく運転を再開した鉄道や船便を使って伊勢へ帰ったり、東京近郊の親戚に身を寄せたりした。 汽車を利用した者は信越線を経て、篠ノ井から中央線を貨車に乗り、名古屋へ出て伊勢へ帰っている。

 残留した幹部たちは東製紙にしばらく世話になった後、五軒町の鈴木封筒店の二階に移り、ここで善後処理と再建に奔走した。 関東大震災当時、店をあずかっていた幹部は支配人小黒久吉、それに西山勝次郎、別府健三郎、奥山賢蔵らの現役幹部、別家の青恒蔵、小菅宇之助、佐野助三郎らであった。


小津清左衛門本店

 関東大震災は東京、横浜を中心に多数の犠牲者を出したが、小津では幸いのことに一人の負傷者もなかった。 しかし、経済的な損害は大きく、あとにまで深い影響を及ぼした。
東京三店の復興
 関東大震災で灰燼に帰した帝都東京には戒厳令が布かれ、支払猶予令が発令されるなど、政府の緊急措置が矢継ぎ早に行われた。 紙業界の打撃はきわめて大きく、組合員協力の対策が協議されたのは九月十五日の役員会で、罹災組合員の慰問、混乱を避けるための現金取引の実行、罹災保険金の支払いに関する内閣総理大臣への陳情等が決められた。 惨害のさなかにも生活必需品である紙の流通回復は緊急を要しており、商店活動の復興は組合員共通の願いであった。 このとき、小津は役員(評議員)の一人として業界復興の衝に当った。

 東京残留者は東製紙から鈴木封筒店へと移り、取引先の厚意を受けつつ、焼跡の片付け、取引先や関係者との連絡など、商売復活のために懸命に努め、営業活動がしだいに回復していった。 善後策が進むにつれ、待機中の店員への復帰指示が行われた。 東京の近くで待機中の人たちは九月下旬から、伊勢に帰っていた人たちも年が変わった十三年一月には店へ復帰した。


小津清左衛門本店(大正十三年三月)

 新しい店舗が大伝馬町一丁目に仮建築ながら復興したのは大正十三年(一九二四)三月であった。 大震災から立ち直り、東京には新しい活気が生まれ、政府の復興資金も投入されたことから、やがて復興景気と呼ばれた活況が訪れた。 小津は全力をあげて生活必需品−家庭用和紙、事務用和紙の流通に励んで、復興需要に積極的に対応した。

 関東大震災後の見通しについて、松阪の本家の憂慮は深かった。 帝都東京の被害の大きさから東京の復興の絶望的な気分まで生まれ、本家の目代のなかには東京三店の撤退論を唱えるものもあった。 こうした見解は社会一般にもあり、出版界でも本拠を大阪へ移して雑誌を発行する社も出たほどで、震災後の成り行きは予断を許さず、松阪の危惧も無理からぬものであった。 東京三店はもちろん積極的な復興策を立て、なかでも本店と向店から強い申請が本家へ出されていた。 本家ではこうした諸意見を検討のうえ緊急理事会を開き、東京三店の復興とそれに要する新たな投資を決定した。 新たな投資は本店七万円、向店七万円、木綿店三万円とされたが、実際には本店十万円、向店十万円、木綿店五万円に増額され、復興資金となった。

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