小津330年のあゆみ

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目次

第一章

第二章

第三章

第四章

016・時代の流れと小津
016・激動の明治維新
016・新政府商社の要職に就く
017・松阪における小津家
017・己卯組結成に参加する
017・和紙全盛の時代
018・洋紙店を営む
018・砂糖問屋を営む
018a・小津本家と新規事業
019・大正後期の主な手漉和紙
019・機械漉和紙を扱う
020・関東大震災で罹災する
020・東京三店の復興
021・震災前の店舗
021・伊勢店、暮らしのしきたり
021・伊勢店のこころ
第五章

第六章

小津和紙

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小津330年のあゆみ

昭和58年11月発行

編纂:
小津三百三十年史編纂委員会

発行:
株式会社小津商店

企画・制作:
凸版印刷(株)年史センター

印刷:
凸版印刷株式会社


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震災前の店舗


小津清左衛門本店(震災前)

 大正十二年(一九二三)の関東大震災で焼失した本店の建物は江戸時代からのものであった。 表からは一見二階建だが、高い棟をもつ三階建で、土蔵は小さい窓と分厚い扉で防火構造になっていた。 いざ火の手が迫るとなれば、平常から蔵前や屋根上に置いてある目塗り用の粘土でふさぎ、大事な蔵を火から守った。 また、地下には入口一間四方、なかの広さ三間四方の穴蔵があり、ここに帳簿や証文等の大事なものを投げ込めば、穴蔵には水が溜めてあって、帳簿などを火から守るようにできていた。 和紙の帳簿は水にも丈夫で、濡れた帳簿も乾かせば文字を読むことができた。 江戸時代から蔵持ちの商家はこうして商売を守ってきたのだった。 しかし、今回の関東大震災では屋根が抜けて目塗りは役に立たず、地下の穴蔵もすでに取り壊されていた。

 関東大震災前の店の外観写真と概略の間取図とが、当時のおもかげを伝えている。

 大伝馬町の通りに面した入口から入ると、座売りの店になっており、三方を土間に囲まれていた。 表店は中央の両面棚を挟んで向かって右手が紙店、左手が綿店で、お客は腰掛けて商談する仕組みになっていた。 表店の奥まったところには帳場があって、目代と支配人が座っていた。 普通、商売はこの表店で行われ、ソロバンと符牒で商売が進められた。 土間はのれんで区切られて奥土間へと続いていた。奥には売場さんのいる売場があった。 売場は大手のお客との応待や仕入れを行う場所で、店の中枢部であった。 蔵は店内に六つあって、内蔵(二階建、改良紙、石州紙、機械漉和紙、送り物など)、奥蔵(二階建、一階は箱物和紙、二階は線か仙貨紙、小間紙)、新蔵(三階建、高級和紙)、間蔵(まぐら)(一つは小間紙、ロール紙。一つは味噌、漬物用)、東蔵(製綿類)となっていた。 正面から見て右手の庇下(ひさしした)は荷物の揚降場(あげおろしば)で、荷を道路から直接揚げ降ろしできるようになっていた。

 二階の南半分は座敷づくりで、仏間や客用の部屋があり、目代や支配人の部屋や番頭、手代、子供衆たちの寝室に当てられる部屋があった。

伊勢店、暮らしのしきたり
 伊勢店には、明治から後へも受け継がれていた多くのしきたりがあり、その中心になっていたのは神仏を崇うことであった。

 神社への参詣は店の大事なしきたりの一つであった。そのうち、神田明神は店の氏神様として、店の者全員が参詣するのが例となっていた。 また、住吉神社と王子稲荷へは代参が立てられ、交代で参拝した。 住吉神社は海の守護神で、船便に頼る問屋たちが崇敬する神社であり、王子稲荷は砂糖問屋仲間太々講にゆかりの社であった。 近所にはえびす講でなじみ深い宝田神社があった。

 一方、仏教への信心も篤かった。店の二階には仏間が設けられ、小津家代々の先祖を祀っていた。 専任の仏関係がいて、朝は燈明をあげて拝むのが役目であった。毎月八日は「八日(ようか)さん」といい、先祖を祀る日であった。 その日の食事は精進(ひりょうず)と決められていた。 毎月二十三日は当番が決められ、奉納の品をもってお寺に代参するのが恒例となっていた。

 店に神棚を飾り、仏間を設けて祖先を祀るのは、震災後の新しい店舗でも変わることなく守られていた。

 江戸時代からの物故店員の墓は深川清澄町(江東区清澄三丁目)の本誓寺にあって、墓碑には「小津三店先亡之諸霊位」と刻まれている。 ここには中途で死去した店員だけでなく、無事に勤めあげた人たちの分骨も故人や遺族の意向で合祀されている。 春秋の彼岸やお盆と暮れには香華を手向け、とくにお盆には全社員が参詣する。このしきたりは小津グループに継承され、今日も続いている。

 また、大事な行事のひとつとして掟の読みあげもあった。正月等の参会の席で全員に読み聞かせた。

 正月十五日と盆のやぶ入りは店員待望の日であった。この日は新しい着物と小遣いが与えられ、自由に時間が使える唯一の休日であった。 そして半紙十帖が与えられるのが例になっていた。

 大正十年(一九二一)ころからはしだいに休日が月に一回になり、いろいろなしきたりも関東大震災後は大幅に変わった。

 店員にとって休日が月一回となったのは大きな喜びであった。第一と第三の日曜がそれに当てられ、交代で休んだ。 休日には二円の小遣いが渡される。 店員はすべて伊勢出身であったから、ほとんどの少年店員たちは浅草へ行って映画を見、食事をし、おしるこを食べ、一日を楽しむのが普通であった。 店に帰ると子供衆頭(おかしら)に小遣いの残額を報告する。 使い方はほどほどがよく五十銭を残して帰るのが少年店員の才覚であった。

伊勢店のこころ
 伊勢店の伝統を堅く守ってきた小津が、ちり紙を扱うようになったのは己卯組のなかでも最後であった。 手堅い商売をすることを信条とし、同じ紙を扱うにも品質をやかましく言ってきた小津としては、軽々にちり紙を扱うことはできず、品質を見定め、市中の動きを納得したうえでないと、手を染めることはできなかったのである。 掟書にも記され、戒められているが、新しい品物を扱うことは慎重であった。

 こうした姿勢は産地問屋との間に信頼関係を生み、仕入れにくる顧客からも信頼されることとなった。 明治期から店の者に語り継がれている挿話に、青森の得意先工藤新助氏の話がある。 まだ東北本線も開通されていない時代のことであるが、工藤氏は青森から人力車で小津に仕入れにきてくれていた。 そして、人が生まれたときから死にいたるまで使用される一切の紙と紙製品を買って帰るのであったが、現金仕入れなので、途中で追いはぎに遭うこともあった。 初めは胴巻に金を入れてきたが、それでも難を免れず、ついには人力車の心棒に現金を巻きつけて追いはぎの目をかすめ、仕入れにきていたという。 そういう危ない目に遭いながらも、小津で仕入れた紙は安心して売れると、仕入れにきてくれて、仕入れた荷は船便で送らせていた。 こうした話は店の者に、商売にとって何が大切かを知らず知らずに植えつけていた。

 店とお客との付き合いについてはいろいろな話題がある。 店にきたお客が帽子を冠ったまま商談しているのを見て、「それは何だ。帽子をとらせろ」と帳場から声が飛んだという話がある。 商売を大切にする気質、店員に礼儀をきびしくしつけている伊勢店の気質から、思わず飛び出したことばであった。 お客に昼間から酒を振舞う習慣もあった。蔵前にはいつも酒樽が用意されており、遠来の客をねぎらうのであった。 堅い伊勢店といわれながら、人情が脈打っていたのである。硬軟織りまぜた話は、伊勢店を心ゆたかなものにしている。

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